講師信仰随想「老婆深切心」

2018年10月31日

高松市 炭山 道雄

 鎌倉時代、曹洞宗禅の始祖である道元禅師は、第一の高弟懐奘(えじょう)とともに永平寺より京都に行くことになった。病気療養の為であるが、再び生きて帰って来れない覚悟の旅であった。

 道元は愛弟子の義介(ぎかい)を呼び後事を託した。「二人がいなくなった後のことは、お前にたのんだぞ」「お前は一山の先達である。私の死後も、この寺に住み、衆僧と力を併せて仏法を守ってくれよ。」道元最後の別れの言葉でもあった。

 この時、義介は落涙悲泣し、師の命令にそむかないことを誓った。道元は静かに云った。「それで安心した。お前の道を求める志気はまことに抜群である。それは万目の見る通りだ。ただうらむらくは・・・」「ただうらむらくは、汝、いまだ老婆心あらず。されど修行おこたらず歳月をかさねれば、自然に老婆心も身につくであろう。」

 義介は涙を押さえてかしこまるのみであった。道元は義介を愛し、義介に道の全てを伝えたいけれども「志気あっていまだ老婆心なきものを、全面的に許すわけにはゆかない。」まことに師弟相擁して泣いたのであった。

 論理が鋭いだけではだめだ。老婆の愚痴とも見えるほどの深切心がないと、道を得た人とは云えない。自ら向上の一路を驀進(ばくしん)するだけではだめだ。自分は渡らずして、まず他を渡すほどでないと菩薩の道とは云えない。

 義介はその後「老婆心の考案」を長年さんたんたる苦労を重ねて修行し、日本曹洞宗の第三祖となった人物である。

 

   青年時代この「老婆心の書」を読み深く感動した私は「自ら向上の一路を驀進するに非ず、まず他を渡す菩薩の行」の生き方を自らの人格形成の目標とすることにした。

   24才から30才まで、兵庫の伊丹青年会で「子供会運動」を行うことになった。極端に内気な性格で、人前に立つことを嫌った自分は、裏方の役に徹することにした。

   行事案内と資料を作成し、休みの日は自転車を走らせ、家庭訪問による参加推進、行事当日は会場の掃除と準備、講話は先輩講師にお願いし、司会・祈り・よい子の祈り・歌・ゲーム・紙芝居等はその役にふさわしい若い女子会員にあてて自らは笑いを担当。講話を担当したのは伊丹の町を離れる最後の一回だけだったと思う。毎月一回の「子供会」を休むことなく6年間続けることにより、小学生の子供会・ジュニア友の会・生高連を有する県下でもうらやましがられるほどの組織に発展しました。

 後に県の女子部長・青年会副委員長・青少年育成部長等が誕生した。若い会員に活躍の場(機会)を与えることが、こんなにも人材が育つものかと驚きの体験であった。