祝福礼拝の実践を

2019年03月01日

 

教化部長 坂次 尋宇

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■祝福礼拝の実践
  以前、小樽で寿司店を経営されている中村全博氏の「産業界に日時計主義を」と題する挨拶に大変感銘を受けました。中村氏は栄える会の会長就任後、何をしたらよいか神に祈ったところ、人々を祝福することだと直感したそうです。それで早速自分の関係する人々を祝福し出したら、祝福した人の見方が変わりはじめ、次々に自分を取り巻く環境も好転していったと喜んで話してくれました。それもたった一ヶ月間の話です。そして更にこの祝福する対象者を増やして行くとのことです。

■断られても拝む
 私はこの話を聴き、『信仰の活人剣』という本の156頁にある「断られても拝む」という話を思い出しましたので長文になりますが紹介します。 
 ある人が修行のために四国遍路のような生活をして歩いておりました。一つの札所を通って次の札所へ行こうとするにはまだ数理を歩かなくてはならない。そこで一つの村はずれに来たのでありまして、次の札所のある村へは何時間かからなければ着かないかわからない。もう日が暮れているから何時間も歩くわけにはいかないと思いまして、その村はずれの一軒の家に行って「お泊め下さい」と言って、ていねいにお願いしたのです。すると、その村人が言うには、「お気の毒ですけれども、家ではお泊め申すことができません。と言ってすげなく断ってしまったのであります。はたしてすげないのか、深切なのかそこは知りませんが、ともかく断られてしまったのです。
 しかし、この遍路さんは自分が断られたことを残念とも思わず何とも思わなかった。日は暮れている。すでにこんなに日が暮れているのに、次の村までもう数理の道を歩かなければならない自分が、ていねいにあんなにお頼みしても、なおこの家の人が泊めてくれないのは、この家に何か物質的に飢えているか精神的に飢えているか、どちらにしても飢えているところがあるにちがいない、ああ気の毒なことであるとこうお考えになったのであります。その時もう、自分が泊めていただけないのが辛いとも何とも考えなかった。「ああ、気の毒なことである。なんかこの家が物質的にも精神的にも恵まれるようにならせてあげたいものだ」という愛が油然と湧き出てきたのであります。それで、二十間くらい歩くと振り向いて、その家の方を合掌して、「この家は心が貧しいのか、物質が貧しいのか知りませんけれど、自分を泊めてくれることができない、何か貧しい点があるのでしょうから、どうぞこれからもっとこの家の人が富みますように」と心の中で拝んでおったのであります。そうすると、その家の人が、今のお遍路さんはどうしたろうかとのぞいておったらしいのです。ところが、何一つ与えたでもなく、すげなく断った自分の家の方を実に敬虔な態度で拝んでいるのでありますから、宿泊を断わったことが何ともいえない申しわけがないような気がして、そこの家の人が旅人を追って来まして、思い泊まっていただくことにしたのです。(以下概略)
 旅人が夜半に醒めて見ると、その家の人は夜通し仕事をしているのでなぜ寝ないのかと尋ねると、夜具が一人分しかないということでした。旅人は感激し二人は眠らずに夜を徹して話し合い、魂の喜びを分かち合ったということです。

 そして最後には次のようにあります。「この相手の実相を拝み出してあげるということは、金がなくても、着物がなくても、何がなくても拝める深切でありまして、その拝みによってみんなが光明化されてお互いによくなってくる、これが生長の家の生活であります。」一人ひとりが祝福実践をしていきましょう。