「無償の生き方」
2016年04月01日
教化部長 坂次 尋宇
■無償
元NHKアナウンサーの鈴木健二さんが書かれた『自分学のすすめ』の一節を、谷口清超先生が『自己完成のために』の本の200頁で紹介していました。
ありがとうの一言
終戦間もなくの頃、私は本州の最北端津軽にあった旧制弘前高校の学生であった。ある日、一人のアメリカ人神父がやってきて、いま日本には戦争で親を失った子どもたちがたくさん放浪しているが「あの子たちの面倒をみてくれませんか」と言ってきたので、私はどうぞ、協力しましょうと答えた。ところが、どこかへ奉仕活動に行けばいいのだろうと軽く考えていた私の前に、突如として下は三歳、上は十三歳までの六八人もの子どもが現われたのである。そして私に与えられたのは、終戦まで軍隊が使っていた兵舎が一棟、窓ガラスないオンボロ家屋であった。
私はびっくりしてそこに新聞紙を張った。ベッドがないのでアメリカ軍に交渉して、七〇人分を無料で寄付してもらった。しかし終戦直後である。普通の家庭でも明日は何を食べようかと思案する時代に、六八人もの小さい子どもを抱えこんだ生活は容易なことではなかった。朝は三時に起きて朝食を作るのだが、暖房ひとつあるわけではないので、子どもは寒くて眠れない。仕方がないから私はベッドから下りて、板張りの床へ大の字になる。すると子どもたちが寄ってきて、私の腕を枕にして豚の親子のようにして眠った。
その中に、名前も身元もわからない推定十一、二歳の背丈の小さな精神薄弱の女の子がいたが、この子が朝から晩まで、皆の洗濯をしてくれたのである。私がそこにいたのはほんのわずかな期間である。
しかし、当時十八歳の私が朝三時に起きて七〇人分の食事を作り、昼食をこしらえ、毎日七〇人分の買出しに行き、夕食を作り、勉強をみてやって、その上、六八人分洗濯をしろといったら、たぶん私は三日ももたなかったろうと思う。
しかし、その精薄の女の子が―もちろんまだ洗濯機はない時代である―厚い氷の張っている水の中に手を入れて、朝から晩まで一生懸命に洗濯をしてくれた。その子にお礼をするおせんべい一枚、アメ一つなかった。
その子に対するお礼は何かというと、私がどうもありがとうと言う。すると、それがわかるのか、一瞬、微笑してくれた。ほかの小さな子どもたちが、おねえちゃん、ありがとうと言うと、あ、笑ってくれたのかなと思うほど、わずかに表情を崩してくれた。それがその子にしてやれるただ一つのお礼であった。
その子が手を暖める暖房がなかった。その子がどうやって手を暖めるかといえば、私が冷たいだろうと両手で握ってやる。手の甲はおまんじゅうのようにふくれ上がり、指は太くなり、爪ははがれ、しもやけはひびが入って両手は血まみれであった。それを私は自分の脇の下に入れてやって、十分でも二十分でも卵を親鳥が抱えるようにじ―っとしていた。そのほかには何のてだてもなかったのである。
(後略)
■徳を積む
この後間もなく鈴木健二さんはこの施設を去ったのですが、その一週間後に精薄の女の子は自動車に跳ねられて即死したそうです。彼女は短い人生を洗濯というたった一つの才能で、67人に愛を与え続けたという価値ある素晴らしい人生を送ったのであり、その生き方に感動した鈴木健二さんも実に素晴らしい愛行をして目に見えない「徳」を積まれたことになります。
日々神と共にあるという信仰生活こそ他の人に感動を与えることができるのですね。
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