不行為の不幸

2017年04月01日

教化部長 坂次 尋宇

hon_yura[1]

■恩恵を受ける
  「私は誰の世話にもなっていないし、これからも独り自分の力だけで生きていく」と言われる方があるかも知れませんが、それは大間違いだと思います。私たちは両親をはじめとして多くの人々の愛情や自然の恵み受けてここまで生きてきた、いや生かされてきたのだと思います。
  そうすると受けた愛情や自然の恵みはもらいっぱなしではいけないのであって、直接本人ではなくても色々な形で与えられた愛情を、自然や社会に返さなくてはいけないと思うのです。

■駅員気分
 以前の事です。JR西日本の山陽本線本由良駅は無人駅で、管理する人が常駐していないためか待合室やプラットホームにゴミが落ちていることがありました。時々JRの方が清掃に来られているようですが、頻繁にはこられないので、朝出発の時に見かけたゴミが帰ってきた時までそのままになっていることがありました。そこで気が付いた人が片付ければいいのだと思い、列車が到着するまでの短い時間を利用してゴミ拾いを始めました。最初は手でゴミを拾っていましたが、待合い室の隅にほうきと塵取りが置いてあるのを発見したので、その後はそれを使用させてもらっています。
 初めは待合室だけを掃除していましたが、掃除を始めると段々と意欲が湧いてきて、次に自動販機が置いてある正面玄関と外を、その次には上りのプラットホーム、陸橋そして下りのプラットホームへとしだいに掃除の範囲が広がっていきました。利用させていただいている駅がきれいになるのは嬉しいことです。電車への乗り降りの短い時間ですが、駅員気分にさせていただきました。

■行わないという行動
  『生活と人間の再建』の67頁には次のような事が書かれています。
「行わないということも一つの消極的行動である。何もしないのに不幸が来たというのは、実は何もしないから不幸が来たのである。生活の創造は心で考えているだけで何もしないでいることによってはできるものではないのである。(中略)
  即ち洪水が来ても河のつつみを高くきずいて氾濫しないようにしておけば洪水の災厄にあわないのであるけれども、毎年洪水が来ることを知りながら堤を築かないで洪水にあうものは、その「不行為」という消極的行動が原因となって、その結果を自分が受けることになっているのである。だから光明思想を研究し、その理論はわかったけれども、そしてそれを信じているけれどもやっぱり不幸が来たという人があるならば、それは光明思想を生活に実践しない所に問題があるということができるのである。彼は人を助くべき時に助けたであろうか。彼は人に与えるべき時に与えたであろうか。彼は人に教えを伝え得る時に伝えたであろうか。その不行動が原因となって、自分が幸福を与えらるべき時に与えられないことの結果が起っているのである。種を蒔く時期に蒔かないものは、刈りとるときに刈りとることができないのである。」