一体誰が息しとるか?
2018年04月01日
教化部長 坂次 尋宇
着(あき)月(づき)暁(さとる)講師が、結核で長期闘病生活をし血便や血尿で骨と皮だけになった滋賀県彦根市の丸橋彦造さんを指導された話が、藤原敏之著『あなたは必ず救われる』に載っていましたので概要を紹介します。
■生きとるか死んどるか
着月先生は、まるで割木に紙を張ったように痩せ細り、死ぬのを待つばかりという状態であった哀れな姿で寝ている彦造さんの耳元で「どうじゃ、生きとるか死んどるか」と大きな声で怒鳴られたそうであります。すると彦造さんは衰弱して目が全然見えなかったけれども、耳はよく聴こえ意識だけははっきりしていました。喉頭結核で声帯を冒されていたのでほとんど声にならないしわがれた微かな声で「へえー、まだ生きとりますわな」とかろうじて答えたそうです。「そうかい、誰が生きとるのか」と先生が聞くと「わたいが生きとります」と彦造さんが答えた。「ほう、あんたが生きとるか。そんなら息は誰がしとるか」と尋ねられて、「息かてわたいがしとりますわ」と言う。着月先生は「随分器用なことするねー、そんならしばらく止めてみー?」と言うと彦造さんは暫く考えてから「そいつは出来まへん」と答えたそうです。そしたら先生は「そりゃあ、おかしい。自分でしているものなら、自由に止めたり始めたりせんか」と詰め寄ると、彦造さんは「そんなら一体誰が息をしとりますのや」と聞いてみた。「そこじゃ、それが第一間違っている、自分で生きているじゃの、息をしとるじゃのととんでもないぞ。息一つ自由に出来ないものが、あと何をしているというのか。何も出来ていないじゃないか。丸々生かされておりながら、自分で生きているとは何たることじゃ。けしからん。」と詰め寄ったそうな。
この言葉で彦造さんは「ああ、そうであったのか」とはじめて気づいたといいます。これは大変な思い違いをしいていたと懺悔の心が湧きだし、何の反発も抵抗もなく着月先生の言葉を無条件に受け入れる心の姿勢が出きたのです。
■生きているのは使命あり
そして先生は「君は今生きているといったねー、生きているということはすなわち寿命があるということだよ。寿命とは何だと思うか。使命だよ。生きているのは使命がある証拠だ。つまり生きているのは使命があり、必要があると言うことだよ。用があるものが寝てるということがあるか。電信柱でも見てみろ。用がある間は立ってるぞ。用が無くなったら抜いて横にしてもらうだろう。起きろ」と一喝された。
それを見ていた丸橋彦造さんのお母さんは、「えらいことをしてしまった。こんなことなら頼むのではなかった。そっとしておけば4日、5日位はもつと思っていたのに…。今日は先生、殺してしまわれる」と気が気でなくハラハラしていると、着月先生は「お母さん、何をモタモタしているか。早く市場にでも行って鯛でも四、五匹買ってきて塩を付けて焼き、小豆飯でも早く炊かんか」と。
さらに先生は「今からの人生は君のものでありながら、神様のものだぞ。まず神様今日何を致しましょう、と神様にお伺いを立ててから行動するのだぞ、天のお使いとしての仕事をすませて時間が余ったら神様のお商売のお手伝いをさせて貰うのだよ。」とこんこんと教えられたのです。彦造さんは先生の言われる通り、堅く心に誓われ、一切自分というものを認めないことにされたのです。
着月先生、連合会長、お父様、お母様と五人で、赤飯と鯛の尾頭付きで誕生祝いをしてもらわれた。するとまるで薄皮でなく板を剥ぐように快くなり、完全に癒されたと言うことでした。
■一人一人に使命あり
私たちの人生は一人一人に与えられた神様からの尊い使命があり、それは私たちの都合や目的のためにあるのではなく、神様の世界を実現することにあるのです。その目的に沿ったとき最高の人生を全うすることができるのです。
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