赤ちゃんになったお婆さん
2021年03月01日
教化部長 坂次 尋宇
■若返りの水
むかしむかし、山の麓の小さな村に、お爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんの仕事は炭焼きで、山の木を切って、炭を焼いて俵につめて、近くの町ヘ売りに行くのです。でもお爺さんは、この頃年を取って仕事が辛くなりました。
「ああ、腰は曲がるし、目はしょぼしょぼするし、いやになってしもうたなあ」
その日も、お爺さんは炭俵を担いで、ヨタヨタと山を降り始めました。とても暑い日だったので、喉がカラカラに渇きます。ふと見ると、道端に突き出た岩から、綺麗な水がチョロチョロと吹き出しています。
「こいつは、有り難い」
お爺さんは、その冷たい水を飲みました。
「ああ、旨かった。何だか腰がシャンと伸びたようだぞ」
お爺さんは、水のお蔭で元気が出たのだと思い、深く考えもせずに山を降りて家へ帰って来ました。
「婆さんや、帰ったよ」
「おや、早かったですね。お爺さん………!」
お婆さんはビックリ。目をパチパチさせて、お爺さんを見上げました。いいえ、お爺さんではなく、そこにいたのはお婆さんがお嫁に来た頃の、あの頃の若いお爺さんでした。
「………私は、夢でも見ているんじゃあないでしょうかね」
お爺さんも、お婆さんに言われてはじめて、自分が若返っていることに気づきました。
「若返りの水というのがあると聞いていたが、それではあれが、その水だったんだな」
お爺さんは、岩から吹き出していた、綺麗な冷たい水のことをお婆さんに話して聞かせました。
「まあ、そんな結構な水があるんなら、私も行って頂きましょ」
お婆さんはそう言って、次の日早速、山へ出かけて行きました。
お爺さんは、お婆さんがさぞかし若く綺麗になって帰って来るだろうと楽しみにして待っていました。ところが昼になっても、夜になっても、お婆さんは帰って来ません。お爺さんは心配になって、村の人と山へ捜しに行きました。でも、お婆さんはいません。
「どこへ行ってしまったんだろうなあ?」
「キツネに化かされて、山奥へ連れて行かれてしまったのとちがうか?」と皆んなが話し合っていると、
「オギャー、オギャー」
と側の草むらの中から、赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。お爺さんが近づいてみると、お婆さんの着物を着た赤ちゃんが、顔を真っ赤にして泣きじゃくっていました。
「バカだなあ。婆さんのやつ、飲み過ぎて赤ん坊になってしもうた」
しかたがないので、お爺さんは赤ちゃんを抱いて家へ帰りましたとさ。
■老若美醜に引っかかるな
この「若返りの水」は有名な昔話ですね。物事はほどほどにしておけという教訓でもありますが、「もっと若返りたい」という願望は、一般的に男性より女性の方が強いと言うことを示していると思われます。また、人間の本質は肉体では無く魂だから、その魂の成長こそが大切だと谷口清超先生は『創造的人生のために』の中で次の様に書かれています。
本当の人間は肉体ではない、魂だ。従ってそれはどこまでも美しく生長する。無限に生き続ける。だから肉体の老若美醜に引っかかる必要はない。人は引っかかると、忽ち汚くなり、愚かになり、馬鹿になるものだ。ばあさんが、忽ち赤ん坊になる。じいさんが一口飲んだのなら、ばあさんも一口飲めばよい。ところが「若さ」に引っかかると、「じいさんよりもっと若く」といくらでも飲み続けるのだ。
■本心が現実化する
生長の家では基本教義の中の一つに「唯心所現」という真理があり、これは横の真理と言われもので、心で繰り返し思ったり強く心の底で思ったことが現象世界に実現するということです。その心とは表面的な現在意識にある思いでは無く、心の底にある潜在意識の本心とも言うべきものです。ですから心のあり方を間違えると、全く反対の結果が現実化してしまいます。
例えば、「お金持ちになりたい」とか「美しくなりたい」と強く願っている人がいますが、心の底の本心を考えると「お金持ちになりたい」と言う人は「私は貧しい」と思って知るからその願いが出てくるのであり、「美しくなりたい」と願っている人は「私は美しくない」と心の底で思っている事になります。 すると「お金持ちになりたい」とか「美しくなりたい」と強く願えば願うほど、本心の「私は貧しい」とか「私は美しくない」と言う願いを祈る事になり、祈りとは逆の結果が現れて来るのです。
ですから祈るときは「私は豊だ」「私は美しい」と好い結果を肯定して祈る事が大切です。
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