さぬきの郷土に学ぶ「東かがわ市 白鳥神社は境内に2つの日本一がある古社!」
2022年12月25日
今回は香川県東かがわ市にある「白鳥神社」を紹介します。
白鳥神社は神話の時代からの歴史があり、香川県東部では初詣に、お宮参りに、七五三にと、とても親しまれている神社です。白鳥神社へはJR高徳線讃岐白鳥駅から徒歩5分、車の場合は駐車場が約300台あります。
初代高松藩主・松平頼重(まつだいらよりしげ)公に手厚く保護されていたため、頼重公が寄進したものがたくさん残っていて境内では「寛文4年(1664年)奉納」にやたらと遭遇します。広い境内には日本一大きな鏑矢※1があり、隣接する白鳥の松原には日本一低い山もありますよ。
(※1)鏑矢(かぶらや、希に蕪矢とも書く)は矢の先端付近の鏃の根元に位置するように鏑(後述)が取り付けられた矢のこと。射放つと音響が生じることから戦場における合図として合戦開始等の通知に用いられた。
白鳥神社の概要
白鳥神社はさぬき十五社第1番、新四国曼荼羅霊場第7番、さぬき七福神・恵比須神とさまざまな霊場で札所となっている神社です。
白鳥神社の創建は神話の時代までさかのぼり、能褒野(のぼの)で戦死した日本武尊が白い鳥に姿を変えて飛び立ち、この地に最後に飛来したという伝承があります。この白鳥を日本武尊の子である武鼓王が手厚く葬り、廟を建てたことが白鳥神社の始まりです。
源義経が屋島の戦いへ向かう途中に白鳥神社に戦勝祈願し、劣勢をはねのけて見事勝利したことから武家の守護神として崇敬されました。
天正年間(1573年~1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失しています。寛文4年(1664年)に初代高松藩主・松平頼重公が社領200石を寄進して再興され、天領として保護されました。
広大な敷地の中には播磨灘に面した4万坪の松原があり、瀬戸内海国立公園の一部となっています。
御祭神の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は人皇(ジンコウ)十二代 景行(ケイコウ)天皇の皇子に在らせられ、勅命に依りて九州中国を、その後東国を征定し、帰途の途次、近江国の伊吹山にて病に触れさせ給ひ尾張国を経て伊勢国能褒野に至り病篤く、終に亡くなる。実に、景行天皇四十一年なり、天皇その功をたたえ、武部を定め群臣に命じその地に山陵を造り厚く葬る。群臣入棺し奉りしに、神霊白鶴に化し西方に飛び去る、棺内にはただ衣冠のみ空く在す、その白鶴は大和国琴弾原に、また飛て河内国旧市の邑に至りまた更に飛て讃岐国大内郡鶴内の里に止りる。よってこの所に神陵を建てさせる。成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王(カングシオウ)をして日本武尊の御子、武皷王(タケミカツチノオウ)に従わせて、讃岐の国造に封じ神陵を作らせる(武皷王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり)。日本武尊の御子 仲哀(チュウアイ)天皇の時代神籬を建て封戸を寄らせる。今の神社即ちその御跡である。その後一盛一衰あるが、武家は弓矢の神となし崇敬深い。寛文4年讃岐守高松藩祖松平頼重(ヨリシゲ)侯おおいにその規模を拡め、社殿の修築をなし、領地をさき神領に寄し、幕府の朱印地に改めた。明治五年県社に列せられ現在に及ぶ。
白鳥神社には武運長久、身体壮健、開運、厄除けの御利益があります。
クルクル回るカラフルな風車「かざぐるま回廊」
未だ出口の見えないコロナ禍にあって、地域の行事やイベントも中止や延期が相次いでいます。白鳥神社でも神事の縮小が続いており、参拝される皆さんにせめてひとときでも癒されてもらおうと設置されました。
この「かざぐるま回廊」には、「いい風」が吹いて、物事が「よく回り」ますようにとの願いが込められているのだそう。時折やさしい秋風が回廊を抜けると、カタカタとかわいい音を立てて風車が回りだします。
拝殿の両サイドには大きな水瓶が鎮座しています。水瓶に「一円玉が浮くと願いが叶う」といわれています。
日本一の鏑矢
絵馬殿には長さ24.8mの大きな鏑矢があり、神社に奉納されたものでは日本最大だとか。
奉納絵馬
神社にはたくさんの大きな絵馬が奉納されています。神社のお近くに住む生長の家の信徒の方も奉納されていました。
わらじを履いた神馬像
白鳥神社にはかわいい木造の神馬さんもいます。この神馬さん、足元を見るとわらじをはいています。神馬さんの前の賽銭箱上にはわらじが置いてあり、自分の体をわらじでなでると病気が治る(病気にならない)という御利益があるそうです。