自我を滅却し、栄光を神に帰す

2023年07月01日

教化部長 久利 修

 合掌、ありがとうございます。
 木々の緑が生い茂る美しい季節を迎えました。
 香川教区の皆様には益々ご清祥にて、人類光明化運動・国際平和信仰運動にご活躍賜りますこと、心より感謝申し上げます。
 今、香川教区では、『日々読誦三十章経』の30.日の経言(のりごと)「今・此処・天国を実現する言葉」を暗誦し、『吾が中に、神が今此処に、そして天国が今此処にある』と常住坐臥の祈りの実践が、各地区で行われています。さらに、祝福・讃嘆の祈りが加わり、その喜びの輪が大きく拡がっています。
白鳩会では、毎月開催される総連会長会議において、総連毎の白鳩会員お一人お一人のお名前を読み上げ、祝福・賛嘆の祈りをされています。
栄える会は、3支部の全てで会員の方々の繁栄と実相顕現の祈りを行い、山地会頭の祈り合い神想観では、すばらしい体験と共に新しい会員が増えています。
生教会では、生命学園園児と卒園生(18才まで)、そして、新たに祝福祈願の依頼の申し込みのあった12才までの小学生の祝福祈願を行っています。
 私は、かねてより、信仰者として、リーダーとして必要な資質は何かを、考えて参りました。知力なのか、体力なのか、気力なのか、資力なのか、人格なのか。
 色々ありましょうが、これだけは外してはならないと思うのは、「私心を去り」「自我を滅却し」「心を空しゅうして」「神の御心に添い奉り」「栄光を神に帰す」ことであります。どんなに能力があり、社会的な地位や名声があろうとも、私心(わたくしごころ)があると、神の無限の力とつながることが出来なくなり、その能力には限界が設けられることになり、運動成果も伸び悩むことになります。
 また、己の都合や私心があると、本部方針や総裁先生のご指導に異を唱え、道を外し、間違った方向にそれることになります。
『生長の家』信徒行持要目の六に
 常に自我を死に切るべしとあります。その説明には常に肉体本来なく、物質本来なく、自我本来なく、唯神の生命、今此処にあらわれて生くると思いて感謝して作務すべし。
と説かれています。
自我を死に切ったとき、現象の我は無く、実相の我、唯神の生命が今此処に現成して来るのです。自我は「ニセモノの自分」であり、「本当の自分」は実相の我であります。
 大聖師・谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』35・36頁のご文章です。
 道元禅師はその著『正法眼蔵』に
 「仏法を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり、自己を忘るというは万法に証せらるるなり、万法に証せらるるというは、自己の心身及び他己の心身を脱落せしむるなり」と示されているのである。自己を習う-すなわち自己とは如何なるものであるかを知ることが仏法であるのである。「自己を習う」ならば、「自己」というものを一所懸命につきつめて勉強しなければならない筈と思えるのに、「自己を習うというは自己を忘るるなり」と道元禅師は教えている。ここに「自己」というものに「本当の自分」と「ニセモノの自分」とがあるということが示されているのである。この道元の言葉に多少書き加えて、「本当の自己を習うというはニセモノの自己を忘るるなり」という風に表現するならば一層よくわかるのである。(中略)
 そのような「ニセモノの自分」はよろしく忘れてしまうがよいのである。そのような「自他分離の自分」を忘れ去ってしまったら、自分が虚空にひろがった普遍的存在であり、天地の万物と一体であるということが自覚されて来るのである。これを道元禅師は「自己を忘るというは万法に証せらるるなり」と仰せられたのである。
 自我を滅却し、大神様の御心のままに、人類光明化運動・国際平和信仰運動に誠を尽して、喜び一杯の運動を展開して参りましょう。