知・信・行
2017年02月01日
教化部長 坂次 尋宇
■ノートと湯呑み
以前、奥羽大学の故野沢幸平教授が話していましたが、環境問題を専攻するある教授は、二酸化炭素による地球温暖化について講義をしていたにもかかわらず、彼が使用している自家用車は黒いすすが沢山排出される4WDの車だったと言うのです。
信仰というものは学問・思想やイデオロギーと異なり、その学問・思想やイデオロギーが自分の生活に実践されてはじめて信仰と言えるのです。
谷口清超先生著『神は生きている』の127頁~129頁に次のような話があります。
高尾山上での挿話
(前略)それは宗像さんが七月の高尾山の講習会に出席した時、宗像さんの隣で熱心にノートをとりながら受講していた大学生らしい青年がいたというのです。宗像さんもはじめは時々ノートをとっていたが、やがて「宗教というのは知識や学問ではない。実行である。だから別にノートをとるという事は重要なことではない」と考えて、ノートをとることを止めてしまった。そして隣の大学生の熱心にノートをとる姿を「ご苦労さまだ、熱心にノートしているわい」というような幾分冷笑的な態度で漠然と意識しながら受講していたのでした。
さていよいよ午前の講習が終わって、昼食の時間となった時、やはり大学生と宗像さんとは、近くに坐って昼食をすませてから休んでいたが、その時宗像さんは、自分の座席の近くに人々が昼食をたべた名残りの湯呑茶碗が五つ六つころがっていて、そのわきに紙屑も捨ててあるのに気がついた。しかし別に大して気にもとめないで、誰かが片づけに来てくれるであろう位の軽い気持ちで休憩していると、熱心にノートをとっていた例の大学生がツト立ち上って、便所に行くついでにそこにちらかっていた茶碗をあつめ、ちらかっていた紙屑をひろって、それらを会場のうしろの方にもって行ってしまった。
その時宗像さんは、「ああ、しまった」と思った。「自分は宗教はノートをとる事ではない。実行だと思っていたが、その実行においてすら、あのノートをとっていた学生に負けたではないか」と思ったのでした。
そうこうしているうちに、再び午後の講義がはじまったが、しばらくすると近所に坐っていた或る婦人が気分が悪くなったらしく、廊下へ出て行って、そこで嘔吐した。その婦人はしばらくそこへ休んでいたが、宗像さんは、何かこの婦人にしてあげた方がよいのだかと漠然と考えながら、それでもそのまま講義を続けてきいておられた。すると、例の大学生が又もやツト立ち上って洗面所へ行って、そこからコップに冷たい水をくんできてその婦人の傍に置くと、後は又何事もなかったかのように、熱心にノートをとりながら講義をきき始めたのでした。
この時宗像さんは、更めて自分の高慢な気持と、行き届かぬ態度とをふかく反省した。自分は今迄ノートをとっていた大学生を冷笑的な目でながめて、「宗教は知識ではない、行である」などと考えていたが、この大学生は知識の面でも、又行の面でも、はるかに自分よりはすぐれていたのである。冷笑されるべきは、自分のひとを冷笑する心そのものであったのだ、という事に気がついたというのです。
■食器を洗え
『無門関』の第七則にある「趙州洗鉢」の公案で、ある時新参の僧が、趙州和尚に悟りについて教え願いたいとお願いしたところ、趙州和尚は「お前、お粥を食べたか」と反対に問われたので、「食べました」と答えました。すると趙州和尚は、「使った食器を洗ってこい」と言ったそうです。その時、僧は反省するところがあったというのです。
信仰とは単なる観念や概念であってはならず、自分の生き方に具体的に表現されなければ空念仏に等しいということになるのです。日々真理を実践致しましょう。