過程も登山
2017年09月01日
教化部長 坂次 尋宇
■鉄塔の建設
電気の需要が毎年増加していた昭和53年頃、東京電力は電力の供給を確保するため新潟の柏崎刈羽原子力発電所を建設しつつあり、東京に送電するための100万ボルト送電線の建設計画が進んでおり、その試験鉄塔建設に私は従事していました。その頃国内における送電線の送電電圧は50万ボルトが最高で、100万ボルト送電線の建設は鉄塔、碍子、送電線をはじめ全てが初めての試みでしたので、鉄塔および送電線に影響する風害雪害等を調査する目的で、積雪の最も深い新潟県十日町市にある標高1,525mの高石山に試験鉄塔を建設することになりました。鉄塔の各資材を担当する業者は、それぞれの部品に叡智を結集して開発に取り組んでおり、我が社はその建設資材をヘリコプターで山の建設現場まで運搬する仕事でした。ヘリポートは標高600mにありましたから、建設場所までの標高差925mを片道5分程かけてヘリコプターで持ち上げる訳です。
■山頂に立つ
私はヘリポートで無線係を担当し、パイロットに資材の量や運搬先を連絡するとともに、給油時には着陸連絡を受けて整備員に伝える事をしていました。しかし山上の荷下ろし場所は遠いことと手前の山が邪魔をしているためか、ヘリコプターが建設現場とヘリポートの中間ぐらいの場所まで降下して来ないと無線が届かない状況でした。ある時、急遽私が無線機を持って山の上で無線の中継をすることになり、ヘリコプターに乗って一挙に山頂まで上がり、建設現場から少し離れた建設現場の見える草の茂る別の山頂に地上2m程の高さでボバリング(空中停止)するヘリコプターから一人で飛び降りました。そこには私以外誰もいません。
空は青く澄み渡り、南東には1,977mの谷川岳、南西には2,145mの苗場山がハッキリ見え、なんと最高の眺めかと思いました。が、何か物足りないのです。どういう訳か登山をして山頂に立った時の感動や充実感が湧き上がってこないのです。その答えが谷口雅宣先生著『日時計主義とは何か?』の119頁に「人生は喜びの過程を味わうもの」と題して書かれていました。
(前略)「登山」を人生に喩えて考えてみると、私たちはいろいろな登り方ができるわけです。一つの山には普通、いくつも登山道がある。しかし、いったん一つの登山道を選んだら、その道を自分で歩いていく以外に仕方がないわけです。それを「不幸だ」と思えば不幸である。しかし「楽しい」と思えばこれほど楽しいことはない。その過程では、仲間と一緒に談笑することもあるだろうし、自然の美しい風景を眺めたり、鳥の声を聞いたり、道端の花を観賞したり、おいしい新鮮な水を飲んでみたりする。あるいは汗をかいたり、疲れたりすることもあるでしょう。しかし、明け方の静謐な山の雰囲気に触れ、あるいは壮大な日没を見ることもできる。そういう登山の「過程」と、登山する「目的」とは切り離せないのです。山頂へ着くのが目的だからと言って、ヘリコプターに乗ったり、ロープウェイに乗ってしまったら、それはもはや「登山」とは言えない。
私たちは皆、「人間・神の子で永遠不滅の生命である」と教わっている。だから、目的さえ達成すればいいということになると、生まれた途端に「あなたは永遠不滅の神の子だから、肉体みたいなムダなものはいらない」と言ってその「手段」を否定すれば、それは殺人を犯すことになるかもしれない。しかし、これは大変な間違いでありますね。だから、私たちは与えられた「人生」や「肉体」、そして自然環境というものをしっかり受け止め、感謝して使い、味わうことが大切です。そこに私たちの人生の大いなる喜びがある。他と比べて不足している点を呪うのでは、苦しみしかない。手段と目的とは不可分で一体であることを、多くの人に伝えていただきたいと思います。
人生に於いて色々な出来事、つまり過程を充分に味わってこそ充実した喜びある人生になるのですね。登山はやっぱり歩いて。