パンドラの箱
2018年12月01日
教化部長 坂次 尋宇
「パンドラの箱」とはギリシア神話に出てくる話で、ギリシアの神ゼウスはプロメテウスに粘土で我々と同じ姿をした生き物を造らせ、命を吹き込んで「人間」と名付けました。次にゼウスはプロメテウスに「人間に知恵を授けてやれ。ただし火を使うことを教えるな」と。しかし人間は火が無いために物を煮たり焼いたりすることができず、いつも寒さに震えていました。そこでプロメテウスはゼウスの言いつけに背いて人間に火を与え、弟のエピメテウスに人間をゼウスから守るよう伝えました。
怒ったゼウスは、職人の神ヘパイストスに命じて人類最初の女性でありこの世で一番美しいパンドラを造らせ、神々からあらゆる贈り物を受けたパンドラを弟エピメテウスのもとに送り込んだのです。弟のエピメテウスはパンドラの美しさに心を奪われて自分の妻としました。その時一緒に送られてきた開けてはならない美しい箱がありました。にもかかわらず、好奇心の強いパンドラの執拗な要望によりついに箱を開けてしまったのです。
すると箱の中から「病気」、「盗み」、「ねたみ」、「憎しみ」、「悪巧み」などのあらゆる悪や災いが人間の世界に飛び出してしまい、慌ててふたを閉めようとした弟エピメテウスは、最後に箱に残っていた「希望」を発見したというお話です。
さて、谷口雅春先生は「パンドラの箱」の意味を『新版 真理』第四巻312頁に次のように書かれています。
見えると云うことと「真実にある」(実在する)と言うことは別なのです。外形に依って判断すれば、人生は屡々(しばしば)悪しきものが充満し、災禍や、疫病が充ち満ちているように思われます。併し、神が完全であり給うという信仰によって実相を観れば、真実の人生は決して悪ではないと云うことが判るのです。そして却って人間自身の心が彼の悩みの原因であると云うことが判るのです。何故人間自身が彼自身の悩みを造ったのでありましょうか。それは彼に与えられたる自由から、そしてその自由意志によって、知恵の樹の果を食べたからです。パンドラの箱の中に「実相」の希望のみを封じ込み、凡ての悪をのさばらせたからです。すべての悪は五官知即ち「知恵の樹の果」を食し、五官によってみとめられる一切をそのまま実在であるとし、「実相」をパンドラの箱、即ち潜在意識の箱の中へ封じ込む事に依って顕れて来たのです。
かくて神が人類に与えた「自由」を、人類は、最初の行使方法に於いて失敗したのです。しかし、それは「悪」と云うよりも、人類がまだ幼稚で発達の途上にあったと言えるでしょう。やがてパンドラは其の箱のなかから実相の「希望」をも此の世の中に呼び出して、思うままに其の「希望」を、「実相」を、実現せしめる時が来るでしょう。否、既にそれは来つつあるのです。
「人類は、最初の行使方法に於いて失敗した」とありますが、これは言葉の力の使い方を誤ったのであって、明るく積極的で善なる言葉を使用する「日時計主義」を実践し、自己の心の中に円満完全なる想念感情を確立することによって、如何なる不幸な運命も幸福なる運命に変更することができるということです。
昔、天之橋立の近くに春日雄さんと言うお医者さんがおられた。若いときから病弱で下痢が続くし顔色は悪く、息も恐ろしく臭くなり始めていたのですが、毎日の診察は欠かさずやっていました。どうも肺壊疽になっていて息が臭く、家がグラグラ揺れ動くように感ずるので、診察を止めて明日は入院しようと覚悟を決めたのです。
その夜、生長の家を信仰している姉が、春日さんのためにとお願いしていたお坊さんの安田良忍講師がやってきました。そして「病気は無いんですよ」「下痢は結構なんですよ」「肺壊疽もありがたいんですよ」と有り難い話を繰り返しして帰ってしまった。春日さんはあっけにとられて、「ハテナ、これは私がもう助かる見込みが無いと言うことで、引導を渡しに来たのだ」と理解したのです。それならと言うことで、夜中下痢をしながら「有り難うございます、有り難うございます」と唱え続けていたところ、朝の5時頃になると今までの痛みがすーと軽くなって、ぐっすり眠ってしまったのでした。やがて目が覚めてみると実に清々しい気分となり、肺壊疽も下痢も、骨膜炎もすっかり消えてしまったということでした。
「有り難い」と思うのではなく、「有り難い」と言うのです。日々この「日時計主義」を実践してまいりましょう。