お風呂供養

2022年08月01日

教化部長 坂次 尋宇

 平成23年4月に岡山教区に赴任したばかりの時の話です。5月の練成会に東京から参加された恩田美恵子さんが、自宅に帰ってから仏壇に心を込めてお茶をお供えしてお祀りしたところ、長女の冷え性が癒されたと言う体験を伝え聞きました。私は6月13日の練成会で「人生を支配する先祖供養」と題する講話を担当していましたので、その体験談を講話の中で紹介していた時に、「そうだ!義母にお風呂に入ってもらおう」と気が付いたのです。
R 実は義母は平成22年の9月まで岐阜市で一人暮らしをしていましたが、入院の必要が生じたため、これを機会に当時私達夫婦が住む山口県に来てもらい入院することにしました。その年の12月には退院したものの、シャワーで体を洗う事があっても湯船にゆったり浸かって入浴をすることは希でした。そして平成23年4月に岡山に来てからは介護用移動式風呂での入浴だけになり、5月4日87才で他界しました。
 義母は病気になってからまともにお風呂に入る事が出来なかったので「暖かいお風呂にゆったりと入り身も心も温まると同時に、髪の毛から足のつま先まで洗って垢を落としてさっぱりとしたいだろうなー」と思ったのです。練成会終了日の6月14日、妻に「今晩、お義母さんにお風呂に入ってものうよ」と伝えました。帰宅後義母の供養をする前に湯船に義母が好きだったぬるめのお湯を妻に張ってもらい、灯りをつけタオルも準備して入浴出来る状態にして供養を始めました。「どうぞお義母さん、お風呂にゆっくりと入って、体も心も安らいでください。長い間お風呂に入いってもらうことができなくて申し訳ありませんでした。」何か義母の願いの一つを叶えることができたようでした。翌朝、神想観を実修している時に、義母の笑顔が浮かび「ありがとう」とお礼を言われたように感じました。
 供養する時のお供えは、生前故人が好きだった食べ物などをお供えするものですが、このように故人が願っていたことをしてあげるもの一つの供養であり、故人に対して誠を尽くすことが大切です。
 『新版 人生を支配する先祖供養』の24頁に「先祖供養の意義」の二点について以下のように示されています。

2 第二義的には、
 未だ悟りの境地に達していないで、肉体的自覚を脱し切っていない霊魂は習慣的に空腹の感じを催し、餓鬼道的に苦しむ者もあるので、応病与薬的に「食を欲するものには食を与え、薬を欲するものには薬を与え」という訳で、宮を欲するものには宮を与え、仏壇を欲するものには、仏壇を与えてこれを供養して誠をつくすことが、これが先祖に対する道となってくるのである。従って祖先が仏教で続いて来た家系の霊を祀るには仏教的儀礼に則るがよいのである。

 そして何よりも大切なことは、真理の言葉がちりばめられた聖経『甘露の法雨』をご先祖様に対して読誦し、「人間は神の子である」との悟りを自分自身が深めることであり、自分自身の悟りの程度がそのままご先祖に伝わって行くことになるのです。そのことが次に書かれています。

1 第一義的には、
 人間は神の子である。神の子はそれ自身で完たい。外から何物かを附け加えてもらうことによって初めて完全になるようなものではない。―これが第一義的真理である。神の子たる人間の霊が外からお宮を附け加えてもらわないと霊界の生活に困るようでは、それは宮と言う迷いに捉われているのである。お宮を建ててもらわねば霊界の生活に都合が悪いとか、お堂を建ててもらわねば霊界の生活に都合が悪いとかいうのでは、その霊は神性の自覚が足りないのである。それで、神性を自覚した霊にとってはどんな形式によっても祀ってもらう必要はないのである。

 今年も8月の宇治別格本山における盂蘭盆供養大祭は中止となりましたが、8月の月次祭で霊牌を供養して頂けますので、8月6日に教化部で開催される先祖供養祭・流産時供養祭並びに霊牌奉送祭までに霊牌を奉納して頂ければ、宇治別格本山の月次祭に間に合います。多くのご先祖様を霊牌に浄書して供養させていただきましょう。