神様が見えると地獄?見えないと天国!

2020年03月01日

教化部長 坂次 尋宇

■おまわりさんの如き監視yjimage[7]
   人は自分の目で直に神様や仏様を一度は拝みたいと思う事がありますが、神様が見えたら本当に幸せになれるかと言いますと、そうでもないようです。
   例えば、見渡す限り建物がない広い草原や田んぼの中に信号機付きの交差点があるとします。丁度その交差点にさしかかった時、信号が赤色に変わりました。交叉する道路の左右には遠くまで車が見当たりません。そこでじっと青信号に変わるまで待つか、それとも急ぎの時など左右から車が来ないか確認して交通ルールを無視して赤信号でも突っ切るか。
    ところが、もしその交差点の電柱におまわりさんが隠れているのを発見したら皆さんはどうしますか?これでは信号機を守りますね。このおまわりさんの様な役目をするのが神様なんです。もし四六時中自分のそばで神様が見守ってくれていることは有り難いのですが、神様の姿が見えているということは、おまわりさんに何時も監視されている様に神様から監視されているようなことになるので、自由な行動が出来なくなってしまいます。だから神様が見えることはまさに地獄で、見えない方が天国と言えます。


■見えないことで自由を得る
   『日々の祈り』110頁~111頁には次の様に示されています。
「神さま、私はそんな偉大な神さまの子としてここにあることを心から感謝します。私はあなたの存在をいまここにアリアリと感じます。人はあなたの姿が見えないといって信じることを躊躇しますが、私はあなたが普段、肉眼にみえないことにこそ、あなたの愛の深さを感じます。もしあなたのような偉大な存在が普段から目に見え、私が目を向けるあらゆる所にあなたが見え、あなたの目を感じるならば、私は自ら考え、試行するよりも、ハメルーンの笛吹きに従うネズミの一匹のように、あなたの指示するところへ何も考えずに従っていくでしょう。あるいは私に罪の意識があるときは、畏怖、萎縮して自由な判断を下す余裕をもてず、しじゅう看守の監視下におかれた囚人のように、私はあなたの目の色をうかがう生き方を選んでしまうかもしれません。しかし、あなたが肉眼には見えないということで、私はあなたからの最大の贈物―「自由」を享受することができるのです。」