仏教の極意とは

2022年04月01日

教化部長 坂次 尋宇

■「ハイハイ」は反発心
 御主人が毎週大変楽しみにしているテレビ番組を見ている最中に、奥さんから声が掛かりました。
「あなた、あなたの側にある○○を取ってちょうだい。」
「……あーこの○○か。ハイハイわかりましたよ。」
 この「ハイハイ」の返事には「今大事な場面なのに何で今しなければならないのか、イヤだけど仕方がないな」と言う反発心が込められていますね。ところが「ハイ」は相手の意志を尊重して素直に実行する姿勢かうかがえます。

■「ハイ」が仏教の極意
 『日常生活の中の真理』無門関・聖書篇の第10章「仏法は日常生活の〝素直〟にある」には概略次の様に書かれています。
 迦葉尊者はお釈迦様の十大弟子の中で〝行第一〟と尊敬される実践力の強い弟子でした。かつてお釈迦様が霊鷲山で花を拈って見せられた時、迦葉がニコニコと笑った顔を見た時にお釈迦様は「お前に仏法の極意を授けたぞ」とおっしゃって、金襴の衣をお上げになったのです。ところが阿難という弟子は、お釈迦様のすべての説教の集まりに参列していてその説教を全て憶えているという位で、弟子の中でも〝多聞第一〟と称されていたにもかかわらず、お釈迦様が迦葉に仏法の極意を授けたことを残念に思っているのです。
 そこで阿難は迦葉に「お前は一体何物を伝えられたのか」と聞いたそうです。すると迦葉はその問いに答えず、「阿難」と厳かな声で喚んだのです。阿難は「ハイ」と答えました。そこで迦葉は「仏教の極意を説法することを終わった」と言ったそうです。つまり「ハイ」が仏教の極意で、何でも素直に「ハイ」と受けたら、悪いことでもやがて良いように回転してくるというのです。

■合気武道は何故強いか合気道
 谷口雅春先生は若い頃に合気武道を習われていたことがあるそうで、合気武道が何故強いかというと、「ハイ」の精神の実践だからだそうです。合気といのは自分が「零」になって相手の「気」と「合」って一つになることで、すると決して相手と衝突が起こらないから自分が傷つかないそうです。具体的な話が131頁に書かれていますので紹介します。
 向こうが突いて来たら、「何ッ、突かれるものか」と思って突き返すと、こちらが傷つくのです。向こうが突いて来たら、その突く力と一しょになって、こちらが引っ張れば、向こうは自分の突く力が余って倒れるのです。突いて来れば突かれるがよい。向こうが押すのだったら押されるままに体を退けて引っ張り込むのです。ところが押されると突き返すから、それで腕力の弱い方が負けるのです。向こうが引っ張ればこっちがそのままその引っ張る力について行って突っ込めば、却って向こうが倒れるのです。それは向こうの「気」に「合」わすわけだから合気というのですね。
 合気道家の塩田剛三氏は、弟子から「合気道で一番強い技は何ですか」と問われたら、「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と言われたそうです。

■そのまま素直に有り難う
 同書135頁には「ハイ」の精神について書かれています。
 さてこの「ハイ」の精神こそ、すべてのものを生かすところの不思議な鍵であります。生長の家では、「そのまま素直に有難う」と云う標語があります。どんな時でも、皆そのまま素直に「有難う」と受け入れれば、一時は、困ったことが出来たように見えていても、それが合気武道のように、投げられたように見えながら、少しも傷つかないようなことになるのであります。墜落するときには素直に抵抗せずに墜落するのがよいのです。良寛和尚は「災難に遭う時節になれば災難に遭うが宜しく候。病気になれば死ねば宜しく候。それが災難よけの妙法に御座候」とお書きになったのも、そのためであります。