「生きる」ことは「行ずる」こと

2022年09月01日

教化部長 坂次 尋宇

■道の拾いものR

 私の愛車はスズキのスカイウェイブという250ccのスクーターで、購入して8年が経ち58,000kmを走行していて、通勤は勿論出掛ける時には何時も使用しています。バイクやスクーターは手軽に道路の脇に停車できるので、色々な事に対応できます。例えば道路の中央に落ちている落下物などを見つけると、スクーターを道路の路肩に止めて、とりあえずそのゴミを歩道か道の脇に移動させます。これは車と違ってバイクやスクーターではそうしたゴミを踏んだ場合、下手をすると自分がバイクごと吹っ飛んでしまうからです。今までに拾った物は木材、カメ、段ボール箱、動物の死体、パチンコ台15台程(愛知県に居た頃)、アルミサッシ等色々あります。
 また、走行している車の不具合を見つけると可能な限りその車の運転手さんに不具合をお知らせします。例えば半ドア、ドアの下から出ているスカート、ブレーキ・テールランプの球切れ、タイヤの空気圧が少ない時、ガソリンタンクの蓋の閉め忘れ等。番外編では交通事故の直後に救急車やパトカーが到着するまでの交通整理。火事の時の消防車による道路の片側が占拠されている時、パトカーが到着するまでの交通整理等です。
 しかしこうした行為はすぐに出来るものではなく、ましてや時間が無いと出来ません。見つけてもそのままそこを通り過ぎることは今でもあります。けれどもやろうと決意すれば出来るもので、更にそれをし続けると習慣化して他の人の目を気にせずに出来る様になるものです。

■“初一念”を素直に生きること
 『日常生活の中の真理』無門関・聖書篇16頁に次の様に示されています。
 それでは「今」本当に生きるにはどうしたらいいのか云うと、心に一物をも留めず、「無」になることです。心が「無心」にならないで、一つの立場をつかんでいたら、本当に自由自在に生きられない、自我の立場をなくしなければならないのです。
 卑近な例で言えば、紙屑が往来に落ちていると仮にします。往来に落ちている紙屑なら拾ってどこかへ片付けたら往来が綺麗になっていいのです。「ああ、きたない!」と思うのは、「綺麗にしたい」と云う第一念が起こっているのです。けれども、「人の鼻紙みたいなものを拾って自分のポケットに入れたら人が笑いはしないだろうか、極まりが悪い」と思うのですね。これが第二念であって、迷いなんです。第一念は、「そのままの心」即ち実相から素直に出てきた心ですが、第二念は迷いであります。吾々のいのちが「無」になり「無心」になると、何も第三者からどうだとかこうだとか批評されることを考えなくとも、そのまま「無心」を通して催して来ることを素直にしておったら一番いいことが自然に出て来るわけであります。

■行動によって体感する
 信仰は「知・信・行」と言われますが「知・行・信」だとも言われるそうで、なるほどと思いました。いくら頭で理解していても実際に行動しないと分からない事は沢山あのます。信仰もかくの如しで、いくら本を読んだり講話を聞いたりしても、知った真理を行じなかったならば真理を体得して自分のものとすることはできません。「一日一善」という言葉がありますが、頭では理解していてもいざ実行しようとするとなかなか出来ないものです。しかし勇気をもって実行し続けると、段々と緊張感が取れていき楽にできるようになって行きます。まさに習慣化です。

■心が無になると命は自由自在
 『日常生活の中の真理』無門関・聖書篇19頁に次の様に示されています。
 「いのちが生きる」と云うことは、要するに「行ずる」ことであります。何も行じなかったら生きていない。心臓は行じている、肺臓も行じている。胃腸も行じている、あらゆる内臓や血管が毎日行じている。行じているからいのちが生きているのです。いのちがあると云うことは行じていると云うことであります。「生命体」なる吾々人間が“初一念”を行じないでおって、胃袋や、肺臓や心臓だけに行じさせておって、自分の健康を維持しようと思っても駄目です。“初一念”を素直に行じている人には心にストレスが出来ないから健康であります。吾々はいいと思うことを直ぐ行じていますと、心に「欲求不満足」が蓄積しないから心にストレスが出来ない訳です。そのためには心が「無」なにる。「無」にならないと生命が自由自在になることが出来ないのです。